当サイトは鉄町内会のホームページではありません。鉄町の歴史や文化を中心に紹介しています。
鉄町は都市計画法では、市街化調整区域であり、農業振興地域でもあります。開発や建築は原則
としてできません。農業振興地域は更に厳しい規制があり、行政の指導があります。このような
環境から、自然が残されているとも言えます。(2013-9-18 リニューアル しました)

《鉄町の宗教》

小ヶ谷戸(こげーと)のお社守様(おしゃもじさま)

上鉄バス停から東へ300m、鉄町字上の谷1696番地志村富次氏(現在の志村吉宗氏)
の屋敷内に古きより、「せき」風邪に一番よく効く神様がある。御神体は「石神」(しゃくじん)
「社守」(しゃもじ)の2神を祀った神社がある。

建立年月日は不詳なるも文化年代より以前であったらしい。境内には手洗鉢があり明治
13年2月建立 発願主 志村林之助 、世話人鈴木栄次、鈴木伊左エ門、鈴木嘉十郎、
澁谷竹次郎、澁谷与右衛門、三堀仁太郎、この神社を信仰する人は東京都町田市三輪
、熊ヶ谷、川崎市(旧柿生村)旧田奈村方面に社を中心に半径8粁以内の人々が未だバスも
自家用車もない田圃道づたいに老母のかたに幼女。又老人の代参に地下足袋姿でお参りして
我子、我孫、我父母のなおらぬ病を神にたよった。「風邪によく効く」神様が今なお存在している。

なおこの家の主人の話によれば戦前は「武運長久」までお祈りした人もあるとか。この神の風習は
「風邪」を早く愉すために先ず参拝。神社に奉納してある「シャモジ」を借りてかえり、そのシャモジで
ご飯を付けて病人に食べさせると、どんな悪風邪でも愉るということである。全快者は借りた
シャモジと新たに1本のシャモジを御礼として供えるという。今その「シャモジ」数は終戦前当時の
主人志村直太郎氏の調査したところ千数百本、その後の信仰の程は知らぬがおそらく二千本
近いであろう。御神木は周囲2米もある大きな「モミジ」で幹にはほら穴等があり、フクロ―が
巣造りしたり、クマン蜂が巣造りしていてよく悪童等の遊び場となっていた。
                                ***** 中里郷土史より *****
近年になって、おしゃもじ様の社殿が老朽化したため、今までの社殿を取り壊して
 新しく おしゃもじ様を建立しました。場所は今までの所から10mほど下がったところで
 明るく風通しの良いところです。施主は志村吉宗さんで平成24年8月に完成しました。
 開眼供養もされ、横浜市歴史博物館からも平成25年1月13日に見に来られました。
 下の写真が改築建立された「おしゃもじ様」です。             以上

庚申信仰

かって江戸時代の初期ごろから鉄町では庚申信仰が盛ん
だったことが現在まで残されている石碑から推測する
ことが出来ます。
ひとつは鉄町の宗英寺にある庚申幢(こうしんとう)です。
これは平成9年に横浜市の文化財に指定されている
ものです。延宝4年(1676年)の刻銘があり、見ざる・
聞かざる・言わざるの3猿と雄雌2羽の鶏が刻まれています。
詳しくはこちらをクリックしてください。

もうひとつは鉄町の桐蔭学園の新しく出来たグランドの
隣の竹やぶの中に石碑があります。これも見ざる・聞かざる・
言わざるの3猿が彫刻されています。石には寛文9年
(1669年)3月17日の刻銘があります。

それからもうひとつは、鉄町のバス道路沿いで「上鉄鴨志田
口」バス停のそばに庚申様の石像があります。この石像は
鉄町の人たちは庚申様、庚申様といって崇められています。
この石像には人のような姿が彫刻され、下のほうに、
願主 村 中 庚 と石に刻まれています。青面金剛彫り
の石碑かと思われます。

もう一つは桐蔭学園のグランドのそばにあります。この碑には
3猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が彫ってあり、表面には
縦書きで寛文9年(1669)3月17日と刻銘があります。

庚申信仰とは何か。
これは中国の道教や仏教などの伝説に基づくもので、人間の
頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子・彭常子・命児子)がいて
いつもその人の悪事を監視しているという。三尸(さんし)
の虫は庚申の日の夜寝ている間に天に登って天帝に日ごろの
行いを報告し、罪状によっては寿命がちじめられると言われ
ていた。そこで三尸(さんし)の虫が天に登れないように
するため、この夜は村中の人たちが集まって神々を祀り、
その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを
庚申講という。鉄町では庚申講に入って信仰する人が
多くいたものと推測します。
庚申は干支のひとつで、かのえさるですね。干支の組み
合わせでは57番目です。庚申の日は60日ごとにやって
くるので60日に1回「庚申の日」に神を祀り夜を明かす
のが庚申信仰です。

下の写真は鉄町の庚申信仰の4つの石碑です。

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稲荷信仰


2月に入って初めての午の日が初午ですね。2回目が2の午、初午の日が早く
来ると3回目の3の午まであることがあります。この年は火事が多いという俗説があります。
初午は豊作祈願です。それに稲荷信仰が結びついたものといわれています。
鉄町には個人でお稲荷さん(社殿)をもっている方は沢山います。鉄町は昔から
農耕民で農家の方が多くいました。ですから稲荷信仰があったんですね。

初午の日にはお稲荷さんのある家では幟を両側に立てお赤飯を作り。お祭りします。
この他油揚げやお菓子を、お稲荷さんへささげます。初午は稲荷信仰によって
五穀豊穣を祈願し、今年1年の豊作を神にお願いをした。つまり鉄町では稲荷信仰は
農業の神様でもあったわけです。

稲荷神社を祀った祠がある。そして祠の中にはキツネの置物が左右に置かれている。
初午は元来豊作祈願が原型でこれに稲荷信仰が結びついたものと言われています。
またキツネは、作物などに害になる鼠を捕って食べてくれることから身近な存在だった。
このことからキツネは神の使いとして信仰するようになったといわれている。稲荷神社の
神への願い事は人間から神へ行くのではなく、キツネを通して神へ行く。神からの告げ
事はキツネを通して何かの形で人間へと、つまりキツネは人間と神のパイプ役であると
言われている。稲荷神社の社殿があっても時代の変遷とともに稲荷信仰は薄れて
きているようです。

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馬頭観世音塔


最近鉄町を歩いていたら「馬頭観世音」と刻まれた石塔を
発見した。ひとつはすでに知っていましたが、もう二つ
あったのです。いずれも現在の鉄町を通る県道(バス道路)
から少し山側の方に入った路地の端にあります。

一つは年号が明治五と刻まれているからそれほど古い
ものではないですね。鉄町では江戸末期のころから牛馬を
使って田畑を耕したり荷車を引かせたりしたといわれている。
当時は牛馬は高価でだれでもが飼うことが出来るという
訳ではなかったらしい。それだけに大事にして育てたと
言われている。安政6年に建てた大きなかやぶき屋根の
家では、戸袋(玄関)に向かって右側には牛馬の部屋
がありました。つまり人間と同じように一つ屋根の下に
居たわけです。

やはり当時は馬が一番多くいたようです。一家のために働い
てくれる馬はだいじにされたと言われています。人間は
死ぬと次の六つの世界のどこかへ行くと言われています。
それは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上などです。
これを六道といい、衆生の苦しみを救うという六種の
地蔵さんがいます。これを六地蔵といいます。六地蔵を
お参りすれば少しでも良い世界へいけるといっています。

馬も人間のために尽くしてくれたんだから死後は少しでも
良い世界にいけるよう馬頭観世音を祀り供養したものと
思われます。
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元締めの神明様(もとじめのしんめいさま)


横浜市立鉄小学校(現在の「くろがね青少年野外活動センター)より北へ100mなだらかな南向きの
山裾に元締めの神明神社がある。神明社の祭神は「イザナミ、イザナギ」であると文献には記してある
が、はたしてこの宮がそうであるや詳かでない。

この宮は昭和20年5月25日の戦災により、三堀義広氏宅と共に焼失しているので何の記録もない。
只手洗い鉢1個「奉納 三堀作次郎」と刻んである。古老の話では土佐の国から来たものともいう。
焼ける前の建物は6尺x9尺草葺で外宮内神と分かれ、内神は扉付、外宮の柱の上部に彫刻等
があったと主人は言う。

昭和30年2月再建、御神体は「奉鎮祭神明社神霊」としている。この辺一帯を神明谷戸という。
現在では三堀義広氏の長男三堀米男氏が管理している。社殿が老朽化したため平成24年5月
に再建立した。                                   中里郷土史より


山倉山大六天王尊》(やまくらさんだいろくてんのうそん)


鉄町児松下2388番地に大六天王尊を祀る小さな祠がある。現在鉄町の住人でも古老の人より
外はあまり知る人ぞ少なき。この場所は、昭和46年5月起工剣山地区住宅造成に伴い、東京急行
電鉄株式会社の御尽力により鉄神社境内に移転し、現在の場所に奉納されました。

約1m四方の社の中に石の角塔婆があり、小さな庭に手洗鉢が置いてあった。木綿製の幟一対
には、奉納 大六天王尊、明治二十四年辛豊十二月陽十二月初卯日
    下総山倉山発起人 鈴木伊左ヱ門 講社中 と記してあり、

手洗鉢には、 世話人 大曾根為八  井上祐之亟  金子利右ヱ門 村田勝三郎
         志田仁右ヱ門  澁谷作左ヱ門  臼井太郎吉  鈴木善正  鈴木泰次郎
         内田戒應   
願主     鈴木伊左ヱ門  

                            明治三十二年七月 講社中  と刻んである。

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