当サイトは鉄町内会のホームページではありません。鉄町の歴史や文化を中心に紹介しています。
鉄町は都市計画法では、市街化調整区域であり、農業振興地域でもあります。開発や建築は原則
としてできません。農業振興地域は更に厳しい規制があり、行政の指導があります。このような
環境から、自然が残されているとも言えます。(2013-9-18 リニューアル しました)

《鉄町の歴史・文化》

鉄町の文化とは何か

鉄町では永い歴史の中で培われ、多くの人々の手によって支えられてきた
郷土芸能(古典獅子舞・囃子連)や伝統行事(どんど焼き)があります。
古典獅子舞は神奈川県の無形民俗文化財指定、囃子連は横浜市の無形民俗
文化財指定になっている。それぞれ保存会があり保存会の人達により維持、
管理、運営されている。この地で生まれ、この地で育ち、この地で生活をし、
老いていく中で人から人へ継承し、人とのつながりを大切にし、後世へ
伝えていく、これが文化だ。

関連記事  「鉄町の管理人のブログ」より 
2008年1月13日 の記事を抜粋いたしました。
     
《鉄町の時代背景》
私が幼い頃、祖父に連れられて隣村(現在の鴨志田町)の
甲神社(かぶとじんじゃ)で行なわれた草競馬に連れて
行ってもらったことを覚えている。私が小学校へ上がる
前の話である。現在の鉄町を通るバス道路は当時日野線
と言って牛車が通れるほどの道でした。終戦後は進駐軍
のジープが時々鉄町を通るぐらいでした。私が鉄小学校
へ入学した当時は終戦直後で物資がなく、教科書は1冊
ありましたが、鉛筆やノートはありませんでした。当時は
石板と言って、石の板にロウ石で文字や数字を書きました。
当時はラジオやテレビなどありませんでしたから、こども
達も学校から帰ると家の中にいる子はいませんでした。
外で暗くなるまで遊んでいました。我が家で遅くまで遊ん
でいたY子ちゃんはご飯を食べてお風呂まではいって帰った。
同窓会で合うと、よくこの話をする。

《鉄町の文化》


こうして遊び仲間の絆は現在でも、見えない1本の糸で
結ばれているような気がする。鉄町には誇り高い「鉄郷土
芸能」や「伝統行事」の文化を後世に伝えるための同好会
があります。鉄古典獅子舞(神奈川県無形民俗文化財指定)、
祭囃子(横浜市無形民俗文化財指定)、俳句、民謡、御詠歌、
詩吟囲碁、舞踊、ゲートボール、カラオケ、社交ダンスなどが
ありますが、会員不足で現在未活動のものもあります。
鉄町に住み、鉄町の文化を後世に伝えていくことは、自ら
湧いてくる使命感のような気が致します。

先日他界された鉄町の桐蔭学園前理事長・学園長の鵜川先生
は「桐蔭通信」第535号の中に「国を愛する心」で次の
ことが書かれていた。
『それを端的に言うなら、「日本と言う国の歴史や伝統・文化
を尊重し、それを誇りに思って守り、さらに良い国にいたいと
思える人」「郷土や国を愛する心を持って、しかも国際社会の
一員としての意識を持てる人」を日本人と言う。そして更に
重要なのは、そのように自国を愛する心をもってはじめて
他国の人の立場にも立てる。・・・・・・・・』

これからも鉄町の文化を守り誇りある郷土にしたいもの
ですね。
 

萬助力石(まんすけちからいし)

      宗英寺の境内に萬助力石というのがある。台座には由来が
      刻まれている。

              萬助力石
      文化・文政(江戸時代)の頃、 當鉄町の住人にして、力萬助
      と称されし村谷萬助が、江戸 往還の途、多摩川河畔より五里
      の道中を一人肩に負い當山 鎮守堂に奉納せしものなり。爾来
      當地の若者たちが角力を競いし 謂れあり。茲に祖先の遺徳を偲び
      台座を築き之を安置する者也。
                     維時 昭和五十一年十月吉日
                       萬助四代子孫 村谷 留吉 建之
                                 當山三十九世代
      石の部分には奉納上鉄三十六貫余と刻まれている。約130キロ
      グラムになる。
               下の写真が萬助力石です。

 

鉄火松(てっかまつ)の伝説

          宗英寺より北100mの早野との境に一本の老松があった。何年かの風雨に打ち勝った
 その老松がいわゆる「鉄火松」である。昔この辺一帯は山林で巨木がおい繁っていた
 ものと思われる。古老の話では「鉄火松」のいわれについて昔早野村と鉄村に争いごと
 が起こった。相方相譲らず。ついに裁判に持ち込まれた。そして裁判官の殿様がおいでになり、
 いよいよ裁判。その時早野村では裁判官に袖の下(わいろ)を送っていたという。
 裁判の方法は「真っ赤に焼けた鉄の棒を長く持った方が正しい」ということであった。
いよいよ双方の代表が出て真っ赤の鉄棒を持つ「殿のお声は」鉄代表にかかった。
 鉄代表速座に「アチチ」次は早野代表一寸時間がかかったので鉄棒は冷えて早野代表
 の勝。こうした裁判がこの松の下で行われたので「鉄火松」という。又一説にはとばく
 の場所ともいう。ばく徒のことをテッカ師という。この辺一帯巨木がおい繁っていたころ
 高台で見晴らしもきくし村境のためこの松の下でバクチをしていたのかもしれぬ。
 そこでこれを「テッカ松」という人もある。ある農夫の話ではこの辺一帯から小銭が出た
 ともいう。いずれにせよ、この松も戦時中(昭和18、9年)松喰虫何か知れぬが
 枯れて早野の人に引き取られて今はその跡に碑が建てられている。
 下の写真が鉄火松で、その右が鉄火松の碑です。
 碑には昭和二十二年一月四日 伐採
 鉄火松  跡 
               昭和四五年一二月 
             老人クラブ建之    が刻まれている。

子生谷戸・児松下・女郎松の伝説

。             鈴木忠治氏 資料より
(こうみやと・こまつした・じょろうまつの伝説)
昔、鉄村字子生谷戸(現在のすすき野3丁目)には、哀れな
伝説が残されている。鉄村の北方は山林が多く、人間の居住
した形跡は薄く、江戸時代初期から人々は山林を避け、農耕
ができる川沿いの平地に農地を設けていたが、耕作者の住居
からは遠く離れていた。16世紀中期(慶安時代)江戸の

渋谷村(現東京渋谷区)茶屋の飯盛り女が近所の大工職人
と懇意になり妊娠し、駆け落ちをした。追っ手を逃れながら
裏街道を上方(西方面)へ向かったが、どこで道を間違えた
か石川村(現元石川町)から黒須田村(現黒須田町)の坂
を超えて鉄村(現鉄町)の奥地の山林に迷い込んだ。

太陽が西に傾いたころ、慣れない旅の疲れか俄に腹痛を
起こし産気づいた。連れの男は驚いたが山林の中なので
人家も見当たらず、まして方角も分らずそのまま一夜を
すごすこととした。男は夜明けを待って川(黒須田川)に
沿って下っていけば人家があるだろうと思い急ぎ足で下って

いった。そこで農家を見つけそこの主婦に、お産の手伝いを
お願いしたところ快く引き受けてくれたので主婦を伴って
山林に戻った。間もなく女が無事に出産したので、農家から
食糧を分けてもらい、雨風を凌ぐ小屋を作りしばらく安静に
すごすこととした。しかし女は産後の肥立ちが悪く衰弱し

嬰児も栄養不足で母子ともに二週間ほどで亡くなってしま
ったという。女は遊女などの仕事で誉められる程の人間で
もなかったが、愛する人と幸せを求めて出奔したものの、
運命の悪劇か薄幸を背負ったまま絶命してしまったと伝え

られている。男は悲嘆にくれながら厳かに二人を嶺の松の
麓に埋葬した。その松は薄幸で哀れな二人を庇うか如く
大きく長い枝を、いとおしそうに差し延べていたと言わ
れる。男は暫くそのところに住んでいたが、お世話に

なった農家に行き丁重に挨拶をした後、どこかへ立ち
去ったといわれている。その後この近辺に農耕等に来た
人々はこの地を「老松嶺」(ろうしょうれい)と呼び
この嶺の松を「女郎松」と名づけ、母子の冥福を祈った

という。風雨を凌ぐ小屋を作った所を「子生谷戸」と呼び
母子を埋葬した松の麓を「児松下」と呼んでいた。現在
この地域は剣山地区宅地造成により閑静な住宅街となり、
昔の面影を見出すことは出来ない。伝説による想像のみが
脳裏に残らしめている。・・・・合掌・・・・

大蛇松(だいじゃまつ)について


「鶴見川沿い歴史散歩」を読むと、この大蛇松は鎌倉街道
中ノ道のは並木の大松と言われ、並木松ともいう。樹齢500〜800
と推定される。昭和40年ごろ枯死、昭和45年伐採。一部鉄神社
に使用されている。(鉄寿会) この木の下からも古銭が出土された。
(鉄火場だったらしい)ここの松並木の長さは172間(約310m)
(元禄15年早野村検地水帳)

大蛇松の伝説

        鈴木忠治氏 資料より

伝説によれば、江戸に近い所に名刃を打つ刃鍛冶屋があった。
どうしたことか、近頃名刀がなかなかできない主従共に
大変悩みました。そのあげく息子(職人)が地方へ修行に
出ました。そしてよい鉄の出るところを探しました。
何年かの修業の後、下振りの刃を造り、それを土産に
江戸へ帰る途中、この大松の下で旅の疲れを休めているうち、
何時かうとうとと眠気をもようしていました。その時、1頭の
大蛇がおそいかかり、今にも一呑みにされそうになった時、
はっと!刃の柄に手をした瞬間、落ちたものが大蛇の首で
あった。この息子(職人)は大いに自信を持ち、この大松に
感謝して「大蛇松」と名前をつけたという伝説がある。

それ以来、村人達はだれ言うなく大蛇松と言った。
明治、大正、昭和の初期まで、この大蛇松にしめ縄をはり
老人たちの参拝する姿が見受けられた。
この老松も戦後松のほら穴にオオクマンバチが巣を作った。
それを取るため悪童達が火をつけ、3日3晩くすぶり続けた
こともあった。こうしたことが原因か、松喰い虫の仕業か、
ついに葉を落とし古木と化して勇姿を表していた。昭和42年
ごろよりこの地は、開発の波が押し寄せ地元住民の惜別の
のもとについに、昭和45年12月22日伐採の身となり
ました。

大蛇松の樹齢
五百有余年、高さ30m、周囲6m。

           下が大蛇松の写真です。

 

仁王(におう)と小豆ババア(あずきばばあ)の伝説

        鈴木義正氏より 聴き書き

下の絵は伝説のあった場所と二王・小豆ババアの絵です。

今からおよそ200〜250年前のことである。
現在の鈴木英一氏宅より宗英寺まで通じる1本の道がある。当時は牛車が1台やっと通れるほどの
畔道だったといわれている。この道の横には水路があり、奥の方にある谷戸池からの水が流れていた。

途中には滝壺があり滝が流れていた。この滝の所に水車があった。この水車は現在の志村正治郎
さんの先祖が造ったもので、近所の家々も、お金を払って使わせてもらっていたという。水車のそばには
水車小屋があり、周囲は竹藪と杉で畔道からは水車小屋は見えず、ひゅーがしゃがしゃ、ひゅーがしゃがしゃ

という水車の音だけが竹藪の中から聞こえていたといわれていた。この辺りは戸数も少なく、人家の周り
にはケヤキの大木や、かしの木などがたくさんあって昼間でもう鬱そうとして、うす暗いところだったといわれ
ている。この畔道沿いに1本の大きなサワラの木がありました。

ある時、一人の村人が日没が過ぎ、周囲が暗くなってきたとき畔道を歩いて家に帰ろうとしていた。
ちょうどサワラの木の前に来た時、恐ろしい顔をした男が裸で木の所に立っていた。村人はおどろいて
一目散に走って帰った。又もう一人の村人も見たといい、このことは村中に知れ渡った。

又ある時、村人の一人が日没の頃、畔道を歩いて竹藪のところに来た時、竹藪の中で一人の老婆が
竹かごの中に小豆を入れ川の水でザック、ザックと小豆を洗っていた。村人はどこの老婆かと思い、
近寄ろうとしたその時、老婆が自分の方を向いた一瞬、村人は血の気が引いたようにびっくりして
逃げて行ったという。その時の顔は歯は口から飛び出て、頭からは角が出ていたという。

その後何人かの村人が目撃し、このことが村中に広まったという。村人たちは正体を明かしてやる、といって
10人ぐらいで竹やりや金棒をもって、こっそりちかづこうとした。しかしこういう時に限って、仁王も老婆も
出てこなかったという。その後誰が言うとなしに仁王と小豆ババアという名前で村中にうわさされ、
夕刻から夜にかけてこの畔道を通る人はいなかったという。

ある時一人の村人が竹藪の中で大きなキツネと子ギツネを見たと村の人に行った。村人たちは
キツネが化けて仁王や老婆になったのではないかというようになり、ある時村人たちが集まって
キツネ狩りをすることになった。どこかに巣穴があるはずだ!と一人が言った。もう一人が滝壺のそばに
あったあった、とキツネの巣穴を見つけた。とその時、200mほど離れたところに火事が発生し
火がどんどん立ちあがっているのが見えた。

村人たちはキツネ狩りどころか全員が火事場の方にかけて行った。そして現場に着くと、そこには
燃えた跡は何もないのです。村人たちは確かに火が見えたといって不思議に思った。その間にキツネの
家族はどこかへいってしまった。村人たちは巣穴を見つけたがそこにはキツネはすでにいなかったという。
それ以後仁王や小豆ババアは出てこなくなったという。

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