当サイトは鉄町内会のホームページではありません。鉄町の歴史や文化を中心に紹介しています。
鉄町は都市計画法では、市街化調整区域であり、農業振興地域でもあります。開発や建築は原則
としてできません。農業振興地域は更に厳しい規制があり、行政の指導があります。このような
環境から、自然が残されているとも言えます。(2013-9-18 リニューアル しました)

《鉄町の歩み》

年代表 1445年〜1454年宝徳年代(室町時代)

宝福寺建立(鉄町1316番地)・本尊は如意輪観音菩薩・王禅寺末寺・ 
新義真言宗で如意山持輪院 と号す・開山は長賢 ・大正12年9月1日関東大震災で本堂倒壊した。
このため本尊如意輪観音菩薩像と共に本寺王禅寺に移された。長賢は宝徳3年5月4日寂す。

新編武蔵風土記稿に
境内御朱印地内、村の艮の方にあり、新義真言宗、王禅村、王禅寺末、如意山持輪院と号す、
開山は長賢といふ。寶徳3年5月4日寂す。客殿8間に7間、巽に向かふ。本尊如意輪観音像
にして長一尺三寸ばかり、慶安2年十石三斗の御米印をこの観音に賜はれり。 と記されている。

1596年〜1615年  慶長年代

宗英寺建立(鉄町1783番地)・本尊は釈迦牟尼仏・江戸長谷寺の末寺・一抽山と号す。
開山は長谷寺二世 仁嶺寅如 元和3年5月21日寂す。
開基は加藤権右エ門景正寛永7年8月没す。
加藤権右エ門景正の父は太郎右エ門忠景と言って織田信長の家来であった。
影正は慶長7年徳川家康に従いここ、上鉄村と上州佐位群とに米地470石を与えられ、
大阪両度の戦いに従軍して手柄を立てたと記されている。

景正の子正次三代この寺に葬られたが、その子義景以後は江戸牛込田中寺に葬られ
、 第7代景張に至り家事不取締の咎により知行を半減せられた。為に上鉄村の半は代官支配
の領地になったのである。
1602年徳川家康に従って領主、加藤権右エ門景正来る 34歳。
参考 宗英寺開基 加藤権右エ門景正(墓地宗英寺)−−−−−−父は加藤太郎右エ門忠景
            (徳川家康に従う)           (織田信長の家来)
            二代   正次 (墓地宗英寺)
             三代   義景 (墓地宗英寺)
            四代   正義 (墓地江戸牛込田中寺)
            五代   正隆 (墓地江戸牛込田中寺)
            六代   正広 (墓地江戸牛込田中寺)
            七代   影張 (墓地江戸牛込田中寺)
            八代   正知 (墓地江戸牛込田中寺)
            九代   正光 (墓地江戸牛込田中寺)
当時の戸数・村高
 村別   年号    戸数(文化) 村高(享和) 村高(文政)  領主
上鉄村  慶長7年より 44戸    280石  280名   加藤権右エ門景正
 
中鉄村 寛永10年より 12戸    99石   99石   筧三郎佐エ門正重

下鉄村  寛永10年より 19戸 113石(天保)87石   筧三郎佐エ門正重

1617年 元和3年 5月21日 宗英寺  仁嶺寅怒 寂す。
1630年 寛永7年 8月  加藤権右エ門景正死亡 62歳 第2代正次がその後を継ぐ
       墓地は宗英寺。 
                 

1655年〜1672年 明歴の項

秋光寺建立   鉄町1126番地 曹洞宗・祥泉院の末寺。
      村田藤右エ門氏建立。
      今から400年前、明歴の頃中鉄村の村田藤右エ門光貞(現在の村田武氏
      鉄町1118番地の祖先)氏が鉄町1126番地に建立したもので祥泉院の
      末寺である。延享3年に六部修行者周防国の者で惣左エ門というものが当時
      藤右エ門に勧めて自ら願主となり、堂宇、本尊の再興をなし、新たに西国三十三
      躰観音像を造立された。一般地域の信仰も厚く盛えましたが、時代の変遷により
      廃寺となり、祥泉院に合併となる。
1676年 延宝4年7月正次死亡 69歳 第3代義景後を継ぐ。
        墓地は宗英寺。.
1692年 元禄5年上鉄村に御検奉行入所。
     御検地奉行  平山新助殿  鈴木武右エ門殿
     御検地案内役  志村久右エ門 組頭作右エ門 同忠右エ門 同七右エ門
          同平之丞 同文之丞 同傅之丞 名主傅五右エ門
1808年 文化5年 下鉄村 早野村に争いがあった。
      五ケ村(上鉄・中鉄・下鉄・大場村・市ケ尾村)は鶴見川の水を水田に
      取り入れていた。然し、鶴見川は水田より低いところを流れているため、高い
      所へ水を取り入れるのは不可能、そこで水位の高い上流側の所で水を堰き
      止め、たまった水を新しい水路を作りここに流した。水田はこの水路より低い
      ので水を取り入れることができた。
      五ケ村用水路は早野村の地内を六町半ほど通って鉄村に達する。その為
      鉄村側は通路に当たる早野村に対して堀敷料を払っていた宝永4年の
      「下鉄村地検帳」には字大河内(後世下耕地)にある。縦横55間、10間
      の上田が早野村へ「堀敷」として渡されていることを記している。
      ことの起こりは、凶作だった文化5年(1808)下鉄村が早野村へ渡していた
      米をまけてくれるよう、早野村にかけあったが拒絶されたことにより始まる。
1816年 文化13年2月10日 一抽山宗英寺23世青山太慶和尚金比羅大権現再建。
1817年 文化14年2月 傘連判状提出。 大凶作減収の為、年貢米等減額の願いを22名の
       傘連判状(血判)を田村地頭所へ提出する。 中里郷土史より。
1822年 文政5年12月名主久右エ門、組頭源次郎 組頭次郎右エ門
1823年 文政6年9月年番治右エ門 年番九左エ門 12月名主九右エ門 百姓代表藤蔵
      年番作右エ門 同久右エ門 年寄三郎兵栄 同作右エ門
       文政6年上鉄村の内紛。  用水路監理問題をめぐって上鉄村に内紛が起こった。
      内紛の内容は、用水路を守る為の協定が設けられてあったが、一部実行
      されなかったのである。そこで中鉄、下鉄、大場、市が尾各村の役人が仲立、
      取り扱い内情に納めた。(内添の議定証の原本は澁谷善作氏宅保管)
1824年 文政7年10月 名主久右エ門 同三郎兵衛 組頭活郎右エ門 年寄活右エ門
     百姓代善右エ門 同藤蔵 年番活右エ門 同九右エ門
1835年 天保2年 名主武右エ門 年番藤蔵 年寄吉五郎 組合兼五郎
1835年 天保6年 名主武右エ門 年番藤蔵 同九左エ門
1838年 天保9年 名主武右エ門 年番九左エ門 同藤蔵 組合兼五郎
1843年 天保14年12月 天満宮(上鉄氏子中)再建。世話人鈴木吉兵衛 同三堀武右エ門
1845年 弘化2年 名主武右エ門 年番藤蔵
1858年 安政5年 名主武右エ門 月番名主源次郎 年番九左エ門 百姓代作右エ門
1807年 文化4年 不作積の為年貢米の減額を書状を持って地頭松村市左エ門宛願出。
             下鉄村名主門弥 組頭利右エ門 百姓代源七

鉄神社の由緒沿革

鉄神社の右側に「鐵神社の由緒」が書かれた大きな表示板が立っている。
この中には次のことが書かれている。
新編武蔵風土記稿に拠ると天文年間(1532〜1555)勧請し、創建
されたと伝えられる。以前は青木明神、杉山明神合社と称していたが明治
初年に上・中・下鐡村の三ヶ村が合併して鐵村となり神社名を「鐵神社」
に改称した。旧本殿が二殿あったが昭和四年(1929)改築した時本殿を
一つにまとめた。
この年、神饌幣帛供進社に指定され、以来鐵上・中・下の総鎮守として
篤く崇敬されている。昭和三十八年(1963)神社境内地東北農地に
私立桐蔭学園建設に伴い参道を拡張する。現在の社殿は昭和四二年(1967)
改築建立されたものである。その後昭和45年(1970)四月に学業の神天満宮
を本殿に合祀した。なお、鳥居は昭和四九年(1974)に建立したものである。
                    由緒沿革に書かれている。

 下の写真は昭和四年に建立された茅葺屋根の鐵神社(中里郷土史より引用)
 その下の写真は昭和四二年に改築建立された現在の鐵神社

鉄町の伝統芸能[1]

鉄町には大昔から伝わる郷土芸能に「鉄古典獅子舞」(くろがねこてんじしまい)
 があります。現在では古典獅子舞保存会が管理運営しています。協賛団体は
 鉄町内会・鐵神社・宗英寺・上鉄さくら会・鉄囃子連保存会の5団体です。
 鉄の獅子舞、鉄古典獅子舞保存会が平成13年(2001)2月13日に
 神奈川県教育委員会より無形民俗文化財に指定されました。
 詳細は「鉄古典獅子舞保存会」「鉄囃子連保存会」のホームページを
 ご覧ください。

鉄町の伝統行事

鉄町には大昔から行われている伝統行事に「どんど焼き」があります。
 毎年1月の14日前後の日曜日に行われます。このどんど焼きは古くから
 上鉄村に伝わる行事の一つであり、五穀豊穣と家内安全を祈願して
行われrたものであります。神仏の古いお札、しめ飾り、書初め等を集め
 ご神火「お焚き上げ」によって神体と共に焼き清め、焚き火で大きな
 ダンゴを焼いて子供たちが食べると風邪をひかない元気な良い子に成長
 するという伝説があります。
 上鉄の「どんど焼き」の実行団体は「上鉄さくら会」が主催で実施しています。

 下の写真は平成25年1月13日に行われた「どんど焼き」 の準備風景です。
どんど焼きの詳細は「上鉄さくら会」のホームページに載っています。
 

鉄町の伝統芸能[2]

鉄町には囃子連保存会(はやしれんほぞんかい)があります
1月2日は毎年鉄町の獅子舞行事が行なわれます。
鉄町の郷土伝統芸能獅子舞は江戸時代末期には既に盛ん
だったと言われています。明治の末期より昭和の戦前頃
までは鉄町青年団の一つの行事でありました。戦後は農業
の後継者が少なくなり、同好の人たちの組織で行なわれて
いました。現在では後継者作りに力をいれ、新年の行事
として、鉄小学校をはじめ数々の施設や企業に行って
厄払いや1年の安全を祈願してくれます。
獅子舞踊りは鉄町の喪に伏している家を除き、各家々に
回ります。鉄囃子連保存会や鉄古典獅子保存会(神奈川県
民俗無形文化財指定)の方たちが鉄町の鈴木工業さんに
集まりここから振り出し、ここから各家々を回ります。
囃子連保存会は、お囃子、お獅子やヒョットコ、おかめ、馬鹿面などの
踊りで、横浜市民俗無形文化財指定になっています。主に神社大祭や
お正月には鉄町のほとんどの家を廻り、家の中で踊って悪病退散
など厄払いをしてくれます。
現在では鉄小学校の生徒さんたちが、お囃子を覚え
鉄小学校の体育館で、毎年新年早々発表会を行っています。

このページの上へ

鉄小学校のルーツをたどれば!

「鉄町の管理人のブログ」2009年2月14日の記事より
先日、鉄小学校の28年度卒業の同期会を行いました。
その時に、中鉄出身のM・Hがこんなことをいった。
おれん所は昔、鉄学舎だったんだよ。と言った。え!と思い
びっくりした。それは知らなかったなあと言った。私も中里
郷土史などで鉄小学校の過去のことは知っていましたが
そのもっと前のことなんですね。

M・Hは「鉄小学校百年史」の中の「記念詩あの頃」に小学校
時代の思い出を投稿している。

私が「鉄小学校百年史」いろいろ見たいんだけど家(うち)に
ないんだよ。と言ったら、わざわざ宅急便で送ってくれた。

鉄小学校の校舎の変遷を見ると現在の鉄小学校の前は、「くろがね
青少年野外活動センター」のところにありました。このあたりは旧名
三ッ郷というところで、横浜上麻生線から山手の方にだんだん
高くなっている。横浜上麻生線に近いところが一番低いところで、
明治9年に新校舎が設立されました。

この校舎も30年ぐらいたって老朽化し、明治44年に建て替え
が決定し、この場所よりも1段高い所に大正元年に校舎が完成
しました。
生徒数もだんだん増えて来たのでこの場所よりさらに1段高い
ところに一番大きな校舎を建て、昭和12年12月に完成
しました。
ですから一番低いところから明治、大正、昭和、と移って行った
わけです。
またこれよりも前、明治5年7月に「学制発布」があり、
明治6年5月に中鉄の村田敬助さん宅に鉄学舎が創設されました。
村田敬助さんはM・Hのお父さんです。
同じ時期に、近隣地区の寺家町の東円寺に寺家学舎が創設され
ました。これが明治8年1月ごろ両学舎合併の要請が県よりあり、
明治9年に現鉄町に(当時、三ッ郷という地名のところに)新校舎
が設立したわけです。
                 「鉄小学校百年史」参考

下の写真は、今は無き旧鉄小学校とその跡にできた「くろがね青少年野外活動センター」です。

このページの上へ

上鉄村宗門入別帳について

↑ PAGE TOP