鉄町はどんなところ、鉄町についてお話します

鉄町の場所と位置づけについて
鉄町(くろがねちょう)は横浜市青葉区内にあり、横浜市の北西に位置する。
南は鶴見川〈谷本川〉、東は黒須田川に囲まれ、西は横浜市と川崎市の市境
になってる。北は同じ青葉区に囲まれた感性豊かなところです。特に鉄町の
南側は鶴見川に沿って田園地帯が広がって、夏は風にそよぐ緑の苗、秋には
黄金色に輝く稲穂が鉄町のグリーンベルトを印象付けている。一方北側は
多摩丘陵の小高い丘になっている。ここには、病院や老人ホーム、学校、霊苑、
神社、寺院などの施設があります。

鉄町の産業・山野で採れるもの
「中里郷土史」によると、古く江戸に出荷されたものには柿(ぜんじ丸)、木炭
(黒川炭)、武家屋敷の屋根材の茅(かや)等が挙げられる。明治中期以後は
養蚕がはじまり、昭和6,7年ごろを最盛期とした。その後、蚕に代って蔬菜
の生産に転向して中里第一出荷組合に加入して、青果を市場に送った。現在では
一部の生産者の方が果樹類(梨・柿・ブドウ・栗)を栽培し、出荷している。
また、鉄町の山野には山葡萄、青葛藤、猿捕茨の実、蔓梅擬など自然に生えて
いるものが多い。これらは秋から晩秋にかけ美しい色の実をつける。

鉄町概略図

上鉄の屋号

鉄町には屋号のある家はたくさんあります。屋号のある家は
先祖代々鉄町にある家で、そこからまた分家で出た家にも
屋号があります。鉄町に古くから住んでいる人は現在でも
姓を言うことはなく、屋号で言います。下記に屋号を示し
ます。
     1.しゃかんや 2.いんきょ 3.せど 
     4.むけい 5.なかや 6.ながや 7.こげと
     8.わたや 9.あらやしき 10.かじや 11.こうち
     12.こうや 13.どかんや 14.あらと 15.うえ
     16.かごや 17.すいしゃ 18.かわくぼ
     19.かんのんどう 20.かんのんざか 21.おもて
     22.やねや 23.たてごや 24.でえもん
     25.がっこうみせ 26.しんたく 27.もとじめ
      などが主なものです。

           屋号は便利

鉄町内会の会員名簿を見ると、鈴木さんだけでも上鉄に37戸あり
3人家族としても、100人以上の鈴木さんがいます。名前も顔も
知らなくても屋号を聞けばすぐにわかります。

鉄町に飛行機落ちる

昭和19年冬、我が軍の輸送機が千葉より九州に軍人11名の
輸送途中機体に故障を生じ三堀庫之助宅地内に墜落し、家屋は
全焼し、庫之助氏の娘良子及び搭乗者全員死亡するという痛ましい
出来事があった。
                          参考資料    中里郷土史

鉄町に焼夷弾320発落ちる

大東亜戦争の終期にアメリカ軍のB29爆撃機P51戦闘機は、昼といわず
夜といわず本土攻撃を波状的にしかけてきた。鉄小学校を宿舎とした軍
の一部隊は石油の代用燃料たる松根油(松の木の根から抽出する油)
の製造を下鉄部落の畑の中で行っていた。昭和20年5月25日の夜小学校に
目標を付けたであろう焼夷弾320個の攻撃を受けた。この時全焼家屋は
10戸半焼は3戸の焼失被害を受けた。
                           参考資料    中里郷土史

田園の憂鬱

時代は朔登って明治末期から大正の初期にとなるが、中鉄の村田武氏の祖父が建てた
隠居家があってそこにすぐれた作家として名をなした佐藤春夫氏が25才の頃住んでいて、
当時18歳で女学生であった金子美代子さんが英語を習いに通ったとのことである。
当時は文壇にもその名は知られておらなかったが、鉄に住んで「田園の憂鬱」を書いて
彼の地位を確立できた大きな要因の土地だった。後年朝日新聞社の人々と共に
佐藤氏は42年ぶりに鉄町を訪れ、金子美代子氏と共に昔を語り合って、「山林新にて
田園のそうびあともなし 青春の夢、とけざるに、身は白髪の多きかな」と詩をのこした。
佐藤春夫の代表作「田園の憂鬱」はこの土地と生活から美しく描きだされたものであった。

下の写真は「田園の憂鬱」の碑。この碑は上麻生線道路沿いにあります。

佐藤春夫が住んでいた家

                            参考資料    中里郷土史

伊勢湾台風

昭和34年(1959)台風第15号、9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を
中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風である。
鉄町では土砂崩れが起こり、下鉄 内田重一宅 上鉄 澁谷厳、臼井英一、三堀登、
滝尾房吉いづれも家屋全壊し、志村正之、平瀬君平、川田徳蔵宅は半壊、澁谷厳氏
は2名の圧死者を出し、その他近年稀な災害が生じた。

                           参考資料    中里郷土史

鉄町の蝙蝠穴(こうもりあな)


「鉄町の蝙蝠穴(こうもりあな)の由来」      鈴木忠治氏 資料

鉄町の上部の金水谷(きんすいだに)1871番地、もみの木台
へ通ずる狭い道を左に10mぐらい上がった南傾斜の小林の中腹
に、稍大きな口を開けた横穴がある。

土地の人たちは蝙蝠穴と呼んでいた。昔この穴の入口を発見した
頃、蝙蝠が沢山住んでいたものと思われる。入口は現在崩壊して
巾1.5mくらいで、高さ1.2mくらい少し屈めば入れる。

内部奥行約6m、最奥天井高2m、奥巾2.6m程。
土間は現在平らで、峯大の玉石が数十個散乱していた。天井は
入口より徐々に高く、半円形で天井より側壁まで丸味がかった
器具で滑らかに削られていた。

市ヶ尾町にある古墳群の横穴の内壁部より稍綺麗に仕上げられ
ている様に見えた。内壁部をよく見ると造形文字か、動物の
線画か、抽象的な線が走っている。これは最初より刻まれて
いたものか、後日発見されてから悪戯書されたのか分からない。

さて、この大きな横穴は、いつ頃何のために造られたのか。
江戸時代より住家のあったと思われるところより200mくらい
は奥へ入った場所であり、近世の人たちが生活に利用するために
作ったとは考えられない。

内部の構造は定かではないが、このような横穴が、桐蔭学園
のグランド工事中に発見されたと聞いている。
また、早野の川崎市公園墓地付近にもあると聞いている。
昔の下谷本の小学校の近くの岩山の中腹に辛うじて這って
出入りできる横穴が二基あった。

いずれも個人の墓と言われていたもので、蝙蝠穴も墓地と
思われる。市ヶ尾古墳群は二郡になって居り、計十九基あるが
内部とは作りが異なる。現在は整備されて、一部しか内部は
見れないが、内部は前室,中室、後室、に区分され、床の高さも
奥へ入るほど高くなっていて墓らしい型であった。

蝙蝠穴は盗窟されたと思われ、内部は変わっていると思うが
市ヶ尾古墳とは少し違うようである。時の権力者の墓が
大規模に作られるようになったのは四世紀から七世紀ぐらい
までの古墳時代と言われている。

市ヶ尾古墳は六から七世紀ごろ造られたものと言われている。
今日まで都市近郊は宅地造成で、大きな土木機械が大地を
蹂躪して太古の人たちの生活を知る唯一の資料である埋蔵
文化財を踏み躙って陽の日を見ず潰されていくことは
非常に残念である。

この蝙蝠穴は現在宗英寺鎮守堂の下の道を谷戸池の方に
150m行った左側の丘の中腹にあります。最近地主さんが
蝙蝠穴の周囲の樹木を伐採したので入り口がよく見えます。

           撮影2013-3-7

鉄町の主な施設・文化財

1.宗英寺 2.鎮守堂 3.緑の郷 特養老人ホーム 4.庚申幢 5.桐蔭横浜大学 6.鉄文化会館ホール 7.鉄文化会館 8.瘡守稲荷 9.山倉山大六天王尊 10.横浜シルバープラザ 11.横浜総合病院 12.神明神社 13.鉄神社 14.横浜あおばの里 15.くろがね青少年野外センター 16.鉄小学校

鉄町に雷落ちる

平成25年8月11日(日)午後2時ごろ、鉄町に数カ所落雷があり被害が発生した。
一つは鉄町1650番地 鈴木武さんの裏山に落ちた。大きな「もみの木」
がありこの木に落ちた。この影響で鈴木さん宅ではクーラー2台、ビデオデッキ1台、
電話機一台が破損した。
このもみの木は直径約50センチ、高さ約30mの大木で、落雷した時に木が裂けて
大きな破片が落下した。下の写真はこの時の状景です。

同じ日の午後2時ごろ鉄町のポンプ小屋(農業用地下水くみ上げポンプ)に雷が落ちた。
ここのポンプは恒久的には部品を変えないとだめらしいが、応急修理で使用可能に
なったらしい。
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紙芝居(鉄町の伝説)

鉄町の郷土芸能

鉄町の古くから伝わる鉄古典
獅子 舞とお囃子があります。
詳しくは下記の Linkより
御参照下さい

鉄町の伝統行事

上鉄どんど焼き、毎年1月
14日 前後の日曜日または休日
に行われ ます。

上鉄どんど焼き風景

詳しくは鉄町どんど焼き ホームページへNEW

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(ニュースメディア)

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